2012年06月25日
埼玉の伯父さん
埼玉に住んでいる伯父さんが、
同窓会と慰霊祭のために沖縄に帰ってきた。
伯父さんは、慰霊の日に
母校である名護高校での慰霊祭に参加をして、
翌日は、甥であるわたしに会いに来てくれた。
わたしもちょうど休日だったので、
慰霊の思いも込めて、
南部戦跡を一緒にまわることにした。
車を運転しながら、伯父さんの話を聞いた。
伯父さんは当時10歳で九州に疎開していたこと。
直接、沖縄戦を体験したわけではないが、
幼馴染の友人を何人も亡くしたこと。
高校を卒業してからは、ずっと本土で暮らしてきたけれど、
歴史教科書問題が起きてからは、
地域の学校で、沖縄戦を語るボランティアをつづけていること。
「埼玉の伯父さん」と慕っていたおじさんの語る「沖縄」だった。
糸数壕に入り、平和祈念資料館をめぐり、
平和の礎、韓国の塔、そして魂魄の塔をまわった。
梅雨明けの空はどこまでも青く、
悲しみが滲んでいるように見えた。
南部の道を走りながら、
カーステレオから古い沖縄民謡が流れた。
後部座席に座っていた伯父さんが、
小さな声で唄っていた。
伯父さんが幼い頃、
わたしの曾爺さんから教えてもらった歌だそうだ。
この島には戦後67年経った今でも、
多くの戦没者たちの遺骨が毎年のようにみつかる。
すべての不発弾を撤去するには
あと70年かかると言われている。
癒しの島と言われる沖縄に、
いまも癒されない人々が生きている。

平和の礎が語りかけているもの
同窓会と慰霊祭のために沖縄に帰ってきた。
伯父さんは、慰霊の日に
母校である名護高校での慰霊祭に参加をして、
翌日は、甥であるわたしに会いに来てくれた。
わたしもちょうど休日だったので、
慰霊の思いも込めて、
南部戦跡を一緒にまわることにした。
車を運転しながら、伯父さんの話を聞いた。
伯父さんは当時10歳で九州に疎開していたこと。
直接、沖縄戦を体験したわけではないが、
幼馴染の友人を何人も亡くしたこと。
高校を卒業してからは、ずっと本土で暮らしてきたけれど、
歴史教科書問題が起きてからは、
地域の学校で、沖縄戦を語るボランティアをつづけていること。
「埼玉の伯父さん」と慕っていたおじさんの語る「沖縄」だった。
糸数壕に入り、平和祈念資料館をめぐり、
平和の礎、韓国の塔、そして魂魄の塔をまわった。
梅雨明けの空はどこまでも青く、
悲しみが滲んでいるように見えた。
南部の道を走りながら、
カーステレオから古い沖縄民謡が流れた。
後部座席に座っていた伯父さんが、
小さな声で唄っていた。
伯父さんが幼い頃、
わたしの曾爺さんから教えてもらった歌だそうだ。
この島には戦後67年経った今でも、
多くの戦没者たちの遺骨が毎年のようにみつかる。
すべての不発弾を撤去するには
あと70年かかると言われている。
癒しの島と言われる沖縄に、
いまも癒されない人々が生きている。
平和の礎が語りかけているもの
Posted by 比嘉みずき at 23:07
│平和